活動紹介Activity introduction

1〜10年目のサロン講演リスト(1984年~1993年)

平成5年(1993年) サロン・ド・K 10年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/27 ファジー制御  —コンピューターで表現するにはー 大阪府立産業技術研究所 中辻秀和
2/24 共に学ぶ生活、環境。人の自立  —家庭科授業を通してー 大阪市立住吉中学 教諭 橡村正雄
3/24 朝鮮半島と日本  —古代から未来へー 毎日新聞編集委員 藤田昭彦
4/23 万葉集の楽しみ方 万葉作曲家 岡本三千代
5/26 我が国と欧米との建築工事費の比較  —なぜ我が国の建築工事費は高いかー 内藤建築積算研究所 所長 内藤薫男
6/23 ペリーが最初か? ノンフィクション作家 佐山和夫
8/20 小麦はどこから来たのか? 横浜市大木原生物学研究所 助教授 笹隈哲夫
9/22 コンピューター雑学  —コンピューターの現状と未来像— 神戸大学自然科学研究所 福田洋司
10/23 哲学の道・美術歴史散歩 (一泊サロン) 住友資料館 今井典子
11/24 民族・地方紛争で揺れる世界と日本 国際関係評論家 浅井信雄
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平成4年(1992年) サロン・ド・K 9年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/22 新薬が世に出るまで 武田薬品工業研究開発本部 副本部長 中村允人
2/21 スポーツあれこれ スポーツニッポン新聞社 編集局 局次長 大西よし充
3/27 “森から”の声 島根大学農学部助教授 北尾邦伸
4/24 “鉄”学入門 イゲタ鋼鈑設備部部長 山崎浩史
5/22 ザ・シンフォニーホール残響2秒の秘密  世界のコンサートホールは今 金蘭短期大学講師 伊藤 厚
6/26 無線通信の現状と今後 アイコム株式会社常務   桜井紀佳
8/26 特許のしくみ —最近の日米摩擦からー 杉本特許事務所所長・弁理士 杉本勝徳
9/30 サルベージ(沈没船の引揚げ)の話 深田サルベージ建設 東村正義
10/28 査察の実際 税理士事務所所長 池田正志
11/27 ミクロ・ナノ・アトム  —人間はどこまで小さな字を書けるかー NTT境界領域研究所 金子特別研究室 室長 金子礼三
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平成3年(1991年) サロン・ド・K 8年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/25 神道うら話 石清水八幡宮権宮司 田中恒清
2/22 中東問題をめぐって 同志社大学商学部教授 山根 学
3/22 高度10,000メートルからの雲 全日空 B747型機 キャプテン 清水兼夫
4/19 アールヌーボーと建築  —マッキントッシュの建築— Ks建築設計事務所 芸術学博士 木村博昭
5/24 最近の電気通信 近畿日本鉄道株式会社 技術研究所 部長 土屋浩一
6/28 地球の営み  —プレートテクトニクスー 兵庫県立宝塚高校 教諭 安積聖夫
8/23 オイアウエ! トンガの生活 大阪府立東百舌鳥高校 教諭 村上悦子
9/27 電車はどのようにして走るか? 南海電気鉄道株式会社 鉄道事業本部工務部長 芦田 淳
10/25 大阪ベイエリア計画 東京海上火災 顧問 平野誠治
11/22 住友長堀銅吹所について 住友史料館 主席研究員 今井典子
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平成2年(1990年) サロン・ド・K 7年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/26 初転法輪 西大寺 僧侶   中野龍三
2/23 魚はいかにして寒さに耐えるか? 大阪女子大学 基礎理学科 講師 津川克治
3/23 シマリスの森と夢 フィリップス大学講師 川道美枝子
4/23 橋爪功の演劇論 俳優 橋爪 功
5/25 光エレクトロニクスについて 日立製作所 情報通信システム事業部 光機器部長 斧田誠一
6/22 合成繊維  —この素晴らしきものー 帝人株式会社繊維研究所 主任研究員 牧野昭二
8/29 美術の鑑賞と真贋 歯科医師 駒井俊夫
9/28 カラーリストってご存じですか? カラーリスト 安田千寿
10/24 船のプロペラとその応用 ミカドプロペラ㈱ 技術部長 河野嘉雄
11/21 知られざるドイツの画家たち 大阪大学大学院 文学研究科博士課程 池田祐子
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平成元年(昭和64年, 1989年)サロン・ド・K 6年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/27 老年期痴呆治療薬の研究開発  —ボケは治るか?— 武田薬品工業㈱ 生物研究所主席研究員
永岡明伸
2/17 交通事故の損害賠償 弁護士
柳谷やす秀
3/18 浄運寺 →  バ−ドウォッチング (一泊サロン) 自然観察の森 レンジャー
丸谷 聡
4/26 原発の信頼性について 三菱重工業 原子力品質保証部 主任
椹木和人
5/26 植物のバイオテクノロジー 大阪府立農林技術センター 主任研究員
嘉儀 隆
6/23 香りとくらし ポーラ化粧品本舗嘱託消費生活アドバイザー
大下すみ子
9/29 解剖台上の私性群 (The individuals on the dissecting table) ㈱アーバンガウス研究所 所長
池上俊郎
10/27 悪徳商法にひっかからないために 弁護士
森 正博
11/22 登録商標は生きている 杉本特許事務所所長・弁理士 杉本勝徳
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昭和63年(1988年) サロン・ド・K 5年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/22 インドネシア・せらぬ島の植物 大阪府立大学 総合科学部 生物
植田邦彦
2/19 江戸の俳諧 大阪大学文学部 助手
渡辺志津子
3/18 青銅器時代の西アジア考古学 東京大学文学部4年
中村仁美
4/22 レーザー核融合入門 大阪大学工学部レーザー核融合研究センター
乗松孝好
5/27 ラジオアイソトープの医学的応用 大阪府立成人病センター アイソトープ診療科医長
長谷川義尚
6/24 宅地問題について 南海電鉄㈱ 開発事業本部部長
芦田 淳
8/26 日本画について 沖縄県立芸術大学 美術工芸学部 助手
香川 亮
9/30 資産税のおもしろさ 土地活用プランナー
園田公作
10/28 野生生物保護区(サンクチュアリー)の話 姫路市自然観察の森 レンジャー
丸屋 聡
11/12 スターウォッチング (一泊サロン) 宝塚高校 教諭 安積聖夫
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昭和62年(1987年) サロン・ド・K 4年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/23 身近な木材の話 コンピューターソフト会社 歳森 宏
2/20 某宗教団体を相手にしたある訴訟 弁護士 片井輝夫
3/20 ジャマイカ、コーヒーとレゲェの国 —その現実と音楽— 音楽評論家 田川 律
4/24 コンピューター犯罪と暗号 松下電器産業㈱中央研究所情報グループ 館林 誠
5/29 吸水性樹脂の話 和光純薬 国際部部長 藤澤一夫
6/19 やさしい心理学 大阪府中央児童相談所 頼藤和寛
7/24 工業デザインの話 三洋電機㈱ AV事業本部デザイン企画部 金子賢司
9/18 教育問題について フランス語専門校講師 タンベール・クリスチーヌ
10/23 魅惑の星空 宝塚高校 教諭 安積聖夫
11/14 スターウォッチング 宝塚高校 教諭 安積聖夫
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昭和61年(1986年) サロン・ド・K 3年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/24 アルコールと肝疾患 武田薬品 中村允人
2/21 ロボットとの対話 松下電器中央研究所 樺沢 哲
3/26 所得税の話 税理士 鈴江 昭
4/25 公園のお話 建築コンサルタント 造園家 青木保二郎
5/16 雪と森林 兵庫県立林業試験場 緑化センター主任研究員 矢野進治
6/20 般若心境の心 杉本特許事務所所長・弁理士 杉本勝徳
7/18 顔の表情の話 診療所所長 精神科医 角辻 豊
9/19 世界の植物 植物地理学者 荻巣樹徳
10/17 宝石 —その美と科学— 宝石商 奥田 誠
11/24 昆虫ホルモンの話 甲南大学理学部 生物学科 助教授 園部治之
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昭和60年(1985年) サロン・ド・K 2年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/25 日本プロ野球50年史 ノンフィクション作家 佐山和夫
2/22 星の話 弁護士 片井輝夫
3/22 道路のお話 井口勝文 竹中工務店
5/18 免疫と膠原病 大阪府立成人病センター 北村 肇
6/14 南極のお話 大阪北逓信病院 外科部長 南 亮
7/12 ヨットによる太平洋横断 ヨットマン 岡本卓矢
8/23 欧人から見た日本文化 ウィーン国立民族博物館 日本文化研究家 クルト・ビンダー
9/20 癌の疫学 大阪府立成人病センター 調査課 大島 明
10/11 広告ってなんだろう? 電通 光岡 淳
11/22 コンピューターのイロハ コンピューターソフト会社 歳森 宏
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昭和59年(1984年) サロン・ド・K 1年目
日/時 講演タイトル 演 者
肩 書 名 前
1/20 免疫機構と血液型 大阪府立成人病センター 研究所第6部 北村 肇
2/24 相続法の基礎 弁護士 森 正博
3/23 テレビは何故映るか? 三洋電機㈱  久保田哲夫
4/20 仏教のお話 診療所所長 松田 一
5/18 特許と弁理士のお話 杉本特許事務所所長・弁理士 杉本勝徳
6/29 損害賠償のお話 大阪大学法学部 助教授 国井和郎
7/20 魚の進化学   有本
9/21 秩序は生命のいのち 大阪府立成人病センター 研究所第4部 部長 明渡 均
10/26 近代哲学の流れ 弁護士 森 正博
11/16 水生昆虫の生活 大阪府立大学 谷田一三
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10周年記念誌の紹介

サロン・ド・Kは、1984年1月以来、続いています。この間、発足から10年目と20年目には優遊空間と称する記念誌を発刊しました。前者は、「 優遊空間 サロン・ド・K10周年記念誌 」を1994年に、後者は、「 優遊空間 その2 サロン・ド・K20周年記念誌 」を2004年に、発刊しました。その内容は、サロン・ド・の概要、講演内容(テーマとその講師)のリスト、メンバーの方々の作文などを並べたもので、完成した本は、原則としてメンバーの方々に配布しました。国立国会図書館にも送付しましたので、国立国会図書館の日本全国書誌(No. 2481)の民間出版物にも掲載されています。
ここでは、優遊空間 サロン・ド・K10周年記念誌 より、私の拙文を紹介します。

10周年記念誌

優雅な遊戯をあなたと

サロン・ド・K 10年を振り返って
サロン・ド・K 主宰   北村 肇
(大阪府立成人病センター研究所第6部)
サロン・ド・Kの誕生

大学を卒業したとき、私は自分が結局開業医になるだろうと思っていました。親父も開業医でしたし、医学の研究なんて勉強好きで頭の良い連中がやることと思っていましたから。ただし、若いうちに一度研究的な仕事をして、何か青春のメモワールとなる仕事(論文)が一つできたら良いんだけれど……とも考えていました。今考えると自信もファイトもないつまらない若者であったようです。そしてほんの2−3年のつもりで始めた研究の仕事(免疫学、特にその一部の補体学)はやってみると実に楽しいもので(その楽しさは、誰も入ったことのない密林で宝石を探す、あるいは誰にも解けなかった殺人事件を解く楽しさに通ずるもので、途中は期待でワクワク、結果はダメなことも多いのですが、運良く発見 or 解決できれば暫く喜びに浸っていられます。言わば originarity + discoveryの喜びです)、始めて1年後にはすっかりその魅力に取り憑かれ、とうとうライフワークとなり20余年後の今でも続いています。研究を始めて数年後、仕事も軌道に乗り、国際医学雑誌にも掲載されだした頃、ある俳優が自分の家で専門家の話を仲間と聞く会を開いているのをTVで知り、自分がやりたいもう一つはこれだと思いました。宇宙、植物、芸術など他の分野の話を聞くのは非常に楽しいことであることを知っていましたし。研究室と家の往復だけでどんどん世間狭くなる自分に不安を感じていましたしたから。ワイフは直ぐに賛同してくれました。実際に始めたのは、それから10年後、留学から帰国し、ワイフの努力でサロンのためのスペース確保の目安がついた時で。第1回は昭和59年1月でした。現在でもサロンを支えてくれている杉本君や小川瑛子さんなどの友人の協力が得られたので始めることができました。

場所とスタイルの変遷

その最初の場所は大阪はミナミ、長堀橋にあるビルの10階の20畳程の広さの一室でした。みんな靴を脱いで上がり、真ん中に低いテーブル、周りに3−4人のためのソファと椅子が2つ、殆どの人は床に薄い座布団でアグラよいう具合でした。これに講演のためのホワイトボードやスライドプロジェクターを置くと、参加人数が20人近くになったときはかなり窮屈でした。食事や飲み物の大部分はワイフが買って来たあるいは家で作ったものでした。ですから、講演後の食事時には隣から回って来た透明のプラスチック容器に入ったきんぴらごぼう、サラダ、すし等を自分の分だけ皿に取って次にまわすなんて作業の間に、食べたり飲んだり講師に質問したりした訳です。この人間同士の物理的な距離の短さと飲食を共にするという行為はいやがうえにも互いの親しみを増し。和気あいあいの雰囲気(メンバーの安田先生によると“井戸端会議風” )がありました。この部屋は私たちの自由になり、時間が来て追い出される心配がないため、殆どの人が帰った後も中村・角辻両先生御夫妻たちと夜中まで喋ったこともしばしばでした。ワイフは後片付けのため当夜はそこに泊まるのが常でした。部屋代不要且つ食費が安上がりでしたから。メンバーの方々も私たちも出費が少なくて済みました。このスタイルは5年半続きました。

平成元年9月からは、千日前の川富という料理屋に移りました。その理由は、平成元年7月の案内文にありますが、要するに長穂橋のビルが使えなくなったのです。いくつかの会場を見て歩きましたが、どれも一長一短で、結局ワイフの実弟がオーナーである川富にしました。講演や食事の時間、食事の内容からスクリーンやスライドプロジェクターを預かってもらう……までいろいろ無理を聞いてもらいました。ここは全くの和式ですから畳の大広間で座布団に座って講演を聞くというスタイル(メンバーの安田先生によると“寺子屋風” )でした。当然のことながら食事は美味しく、更にビジネスホテルに移った今でも「また川富へ戻ろう」という意見が聞こえてくるのは無理からぬことかも知れません。平成3年の暮れ、一つの事件(?)が起こりました。サロン・ド・Kの活動が新聞に載ったのです。同年10月に取材に来た時は、大新聞に掲載されることを単純に喜んでいただけですが、12月19日に掲載されたその日から入会希望者からの電話がジャンジャンかかり、我が家はパニックに陥りました。驚き、喜び、戸惑いの挙げ句、結局サロン・ド・Kの主旨と内容を説明した文と入会申込用紙を電話をくれたすべての人(計約60人)に送りました。その内約2/3の方が入会申込書を送ってこられましたが、そこには他の分野の知識や人物との交流を熱望される姿が多く感じられ、マンネリになりがちだった私たち主宰者には“初心に帰る”良い機会でした。入会希望者からの人選はせず、“来るものは拒まず”で、みんなサロンに参加してもらったところ、参加人数は50人以上に跳ね上がり、とても私の手におえなくなりました。慌ててそれ以降の入会希望者にはお断りし、参加者でも毎回必ず遅刻してくるなど好ましくない人をクビにする、と同時に、参加者が多くてもビジネスライクにできる所として再び場所を代えることにしました。従って川富には(平成元年9月から平成4年4月までの)2年8ヶ月お世話になった訳です。

平成4年5月からは現在のライオンズホテル大阪に移りました。いくつかの他の候補より良かったのは、遅い時間(午後8時以降)でも食事が可能、午後10時まで部屋の使用可能、それに足の便の良さでした。これまでの場所と比較すると、マイク、スライド、OHP、ビデオなどの機器が簡単に借りられる(費用は要るが、当方で用意する必要がない)、エアコンの調節が自由などの長所もありますが、食べ物の持ち込み不可、不意の出席者のための食事の件など種々の点融通も効きません。要するにビジネスライク(メンバーの安田先生によると“講演会風” )になった訳です。従ってメンバー間の親密度が減ったような気がします。親密度は人数が増えた今では、何か別のことを考えないとこのスタイルでは無理でしょう。ただし、親睦は当サロンの目的ではなく、私自身は今のところ、(100点満点ではなくても)これで良いと考えています。

講師とテーマ

本誌13−17頁にこれまでのサロンにおける講師とテーマをリストアップしました。延べ100人の先生方にお世話になりました。いずれの方にも真面目にご講演戴いたこと、心から感謝します。レジメを用意してあるいはスライドやOHPで説明して戴いた方など、皆さん素人相手にいろいろ工夫して下さっています。実は、他の分野の人々に話すのは案外難しいのです。コツは“専門的な言葉”ではなく、“易しい言葉”で話すことですが、これが出来るのは内容を完全に理解している人だけです。

講師の方々はそれぞれの専門分野の話をしてくれた訳ですが、聞く方にとっては内容があまりに高度で理解できないこともしばしばです。しかしそれはそれで良いのです。自分の知らない分野にも夢があり、種々の苦労を厭わずそれを追いかける人がいる、ことを認識するだけでも有意義だと思います。『水生昆虫の生活』のタイトルでカゲロウの一生について詳しく話して下さった谷田一三先生がおっしゃいました。「しばしば田舎の川へ昆虫を観察しに行きます。川の土手からじっと川の中を見ていると近所の子供達がやって来て『おっちゃん、何してんの?』、『川の虫見てんねん』と答えると、『そんなんしてたら偉い人になれへんでぇ』」。またこの講演終了後メンバーの一人が言いました「こんなことしていて給料貰えるなんて不思議!」。カゲロウの話は非常に面白かったです。他に今思い出す印象的な方は、南極越冬隊であった南先生、4回も話してくれた杉本君、お話が非常にお上手だった頼藤先生、正統派の中村先生、安積先生、大いに笑わせてくれた清水さんなど、数えだすとキリがありません。

テーマについてはサイエンスから芸術、歴史まであらゆるものを扱って来ました。ただし、‘サロン・ド・Kの概要’にあるように、特定の思想の押しつけは例外です。実を言えば、講演をお願いする段階では予想できなかった押し付けがましい話が1−2回ありましたが、やはり聞いて楽しいものではなく、今後もこの種の話はお断りしようと思っています。

サロン案内文

昭和60年6月よりメンバーの方々に案内文を送付しています。それまでは、電話で連絡していた訳です。案内は、手書き→ワープロ→コンピューターと進歩しました。書き始めて間もなく何となく決めた全体のパターンやロゴマークが今でもそのまま続いています。メンバーの方はお気付きでしょうが、私は楽しく文を作っています。年に1−2度は仕事の多忙時とぶつかり、「誰か代わって書いて!」と叫びたくなりますが、何とか全部自分でやって来ました。代わって書いた人の文章が自分より上手でも下手でも自分は面白くないだろうと考えたからです。今回、10周年を迎えこれまでのものを読み返すと、次回の案内の他に自分の目で見た社会の動きからプライバシーまでが出現し、これはもう日記(月記?)の部類で、読ませれる方には良い迷惑でしょう。また、こんな文でもその内容や‘今月の言葉’の選択に書き手の人物がはっきり出てきます。私自身の世界観の狭さを暴露している訳で、お恥ずかしい限りです。

ロゴマーク

例会案内文にある SALONSALON - - - と続けてKの形を抜いたマークです。これも何となく使い始めたものです。このマークの中に1カ所NであるべきところがHに代わっているのにお気付きですか?あれはミスではありません。私たち夫婦の名前の共通のイニシャルであるHにしたのです。Hに代えるのはSALONの5字のうちならやはりNでしょう。ここで、6−7年前に毎日新聞に載っていた面白い話を一つ。男女機会均等を訴える街のポスターには大きな活字のバックに白地に灰色の斜め縞の地模様がありました。近づいて良—く見るとこの灰色は‘男が変わる’の小さな5字を並べた列と‘女が変わる’の列がブランクを挟んで交互に並んでいたのです。ところが、1カ所だけ‘男が変わる’が‘変るもんか’に代わっていたのです。(5字に揃えるため送り仮名が違うことに注目!また、新聞にはその写真が載っていました)これに気付いた人が、このポスターの責任団体へ問い合わせの電話をしたところ、その返事は「単なるミス!」だったそうです。ウッソー! それはともかく、1カ所だけ代えて密かに楽しむキザな奴が他所にもいるんですねぇ。

サロンの風潮

最近世間では文化教室が盛んです。ライセンスや技術を身につけるだけではなく、知識を求めるものが大流行りです。TV番組にもクイズや海外からのレポートなどが、ホテルの客集めにも有名人によるセミナーが多いようです。知ることを楽しみと考える風潮が根付いて来ていると考えられます。それほど私たちの生活は豊かで余裕のあるものになったと言えるでしょう。先日は、ずばり「知らないことを知りたいのです」という日経新聞のCMコピーを見ました。それを10年前に始めましたので、私たちは進んでいたと言いたいところですが、日立製作所の斧田氏(私と中学同期で、平成2年5月サロンの講師)によると、江戸後期に木村蒹葭堂なる医者がサロンを開いていたそうです(本誌の斧田氏の文参照)。100年前にも優雅な人がいたのです。文明が進み、知識が増えても人間が考えることは余り進歩していないのかも知れません。

サロンの効果

その効果は当然のことながら“知る喜び”です。これは、断片的な知識から講師の夢と生き様を知ることまで、かなり幅広く楽しむことができています。おかげで興味範囲と視野が広くなった気がしています。他には交友範囲の拡大です。特に私は以前から幅の狭い人間で、たいていのオッサンがやるゴルフ、賭け事、飲酒が出来ず、そのため交際範囲は限られていました。サロンを始めてからは(サロンの講師の確保が第一目的で)同窓会など各種のサークルに積極的に参加するようになり、交友も広まりました。もちろん、サロンで初めてお会いした方々とも親しくさせて戴き、非常にありがたく思っています。これは私以外のメンバーの方も同じようで、杉本君なんぞは平成2年2月の講師、池田祐子氏にアタックしてお嬢さんの家庭教師にしてしまったぐらいです。また、私にとってサロンは一つの趣味から10年経った今では何者にも代え難い道楽になりました。これはひょっとしたら世間にあるどんな道楽よりも贅沢な道楽かも知れません。

サロンのこれから

今後は頑張って人数も内容も拡大し、21世紀に向かって飛躍……なんてことは考えていません。この程度で良いと思います。やるならまあせいぜい、たまにはプロの講師や有名人に講演してもらうとか、あるいは一泊サロンなど外に出て星、動植物、遺跡など戸外で実物に接するサロンぐらいです。ただし、細々でも良いから何とか続けて行きたいと思います。

そもそも、サロン・ド・Kは卒後教育や生涯学習なんて大袈裟なものではありません。誰かがやらねばならないことでもありません。これは単なる遊びです。ちょっとゆとりのある人の遊び、言わば“優雅な遊戯”です。人生を豊かにするのは案外こんなものかも知れません。だからこそ、続けて行けたら……と思います。何年も持たずに消滅した他のサロンの話をいくつか聞いています。サロン・ド・Kは、講演して戴いた先生方、参加して一緒に考えて戴いたメンバーの方、案内文のお世辞を言ってくれた方、事務的なお手伝いをしてくれた方など大勢の皆さんに助けていただいて10年間やって来れたのです。本当にありがたいことです。今後ともよろしくお願い致します。

それではまたサロンで逢いましょう。そして優雅な遊戯をあなたと。

平成5年10月

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